もう2008年かよ

遅ればせながら、あけおめこだぜ?ククク


さて、ホントはボンクララジオの後にでも更新するつもりだったんだが、なんか時間が出来たんで、最近読んだ「山谷でホスピス始めました」って本が面白くて紹介してやってもいいかと思った次第だぜ?ククク


東京のドヤ街・山谷でホスピス始めました。―「きぼうのいえ」の無謀な試み

東京のドヤ街・山谷でホスピス始めました。―「きぼうのいえ」の無謀な試み


タイトルからして、徳光アナが涙腺緩ませそうな内容かと想像するヤツは多いだろうが、全然違うんだなコレが。
ドヤ街に住む老人たちの生き様と死に様を、ホスピスという独自の枠の中で丹念に見つめているワケだが、
読み方によっては、日々の看護日誌を読みやすくしただけって感じもしないではないのぅ。
だが、そんな適度なライヴ感があってなかなか宜しいぜ?ククク


この本の中で著者が「生き方は、死ぬときに必ず問われる」と書いてるんだが、仲間やら親族やら配達先の住人やらを少なからず見送ってきたオレとしても、これは実感として判るのぅ〜。
イイ看取られ方をして臨終するヤツの、なんと少ないことかとなククク
もちろん、人は死んでしまえば、どんな看取られ方だろうが知る由もないが、死んでゆく者がたとえドヤ街の名も無き老人だとしても、看取る人はいるってことだな。
その看取る人をシアワセな気分にちょっとでもさせることができたら、それは安らかに死ねるということなんじゃねーのかのぅと、この本読んでて思ったんよ、俺様はなククク


山谷は、2002年のサッカーW杯の頃から外人のバックパッカーが増えてるそーだが、それでもドヤ街としてはまだまだ「機能」することになるだろーな。
老人は増える一方だし、低所得者もまた増える一方だからのぅ。
だが、例え人生の多くにつまづいて、失敗して、落ちこぼれたとしても、キチンと看取ってあげようとしてる人がいるってのは、決して悪いことじゃねーと思うんだよな


死ぬ瞬間は、銀行にどんだけ金が蓄えられてても、どんだけ豪邸に住んでても、どんだけオタグッヅを所持していても、どんだけ女を抱けたとしても、どんだけ主義主張を声高に叫んでも、
何にもならん。屁の足しにもならん。
だが、たとえブサメンな顔でも安らかに死んだ顔なら、それを看取る人たちは「ああコイツはシアワセな死に方をしたな」って思ってくれるんじゃねーかのぅ。


まぁ死生観は人それぞれだから、オマエラも俺様のように思えよとは言わんけどなククク